人生における節目はいくつかある。卒業、就職、結婚、出産、などなど。
それらは門出とも言われ、周囲から祝福を受けて送り出されるものだろう。この節目をどう捉えるかで、人間は変わったり、変わらなかったりする。
そして、変わった人間と、変わらなかった人間の意識のずれは、埋めようのない深い溝になって行く。
この小説の登場人物は、疎遠になりつつある学生時代の「友人」たちだ。
目的も何もない、ゆるく、とぼけた会話が続き、「すき焼き」って何だろうねという話になる。すき焼きは家庭によって、材料も作られ方も違う。
その定義はどこにあるのか。
それならば実際にすき焼きを作ってみるまでだと、高価な鍋を衝動買いするところから、元恋人に連絡をとるなどして、アドリブだけの無計画な旅行に発展して行くのが、ストーリーの大筋となる。
ただのすき焼きではない。すき焼きを “超越した” すき焼きを作るのだ、という悪あがきのような意地。
ともすればそれは、いつか大きいことをやってやる、大勢の中の一人ではない特別な何者かになるのだという類の、「自己実現」や「夢」に置き換えることができるのかもしれない。
10代や大学生の物語ならば、それで許されただろう。
しかし、もうじき30代になろうかという人間たちが、そんなところに落ち着いていたら茶番である。
登場人物たちは、共通の友人の自殺を経験している。だからこの旅行は、表向きは、その過去に向き合い、心の傷を癒すための関係の修復のようにも感じられる。だが違う。
人生の節目とは、そもそもが決別の意思を持つための儀式だ。誕生日パーティーではない。
一見、楽しいだけのように見える旅は、人と人とが離れていく様を、淡々と残酷に描いてもいた。
そして、最後に残ったもの。旅行から戻り、公園で弁当を食べながら、漠然とつぶやいた抽象的なもの。見据えたその先に、揺らぐことなく、いつも傍らに存在し続けているもの。
それが何かといえば、私の知るかぎり、「友情」という言葉以外に思いつかないのである。